エイベックス35周年特別企画として、TRFのリーダー・DJ KOOを案内人に迎え、時代をつくってきたさまざまなアーティスト・タレントたちとのスペシャルな対談をお届けする企画がスタート。その記念すべき最初のゲストは、2000年代に“エロかっこいい”の代名詞で、日本における新たな女性アーティストのスタイルを切り拓いた倖田來未。対談では「ヒット・ ムーブメントはどのようにして生み出されたのか」をトークテーマに、DJ KOOと倖田來未のふたりが、これまでの成功体験やキャリア形成を振り返りつつ、現在進行形のアーティストとして、音楽×エンタテインメントの過去・現在・未来について語り尽くす。
2000年に念願のデビュー
当時は『10年歌えたら幸せ』と思っていました
1990年代から2000年代にかけて、エイベックスはダンスミュージックを軸に一時代を築く数々のヒットアーティストを生み出し、日本のエンタテインメント業界の中心へと駆け上がる。DJ KOOと倖田來未はまさに、その激動の中心にいた人物たちだ。
DJ KOO(以下、KOO)「TRFは今年で30周年。でもさらに遡るとその前に僕は、エイベックスがまだ洋楽をメインにやっていたころに、DJとしてエイベックスの楽曲をDance Mixという形でリミックスしていた。だから、立ち上げ当初くらいから一緒に時代を過ごしてきたんだよね。DJ歴で言えば今年で43年目だから」
倖田來未(以下、倖田)「なおかつ、今も現役で活躍されていることがすごい。私は2000年デビューで、当時は『10年歌えたら幸せ』と思っていました。歌手を目指し、小学4年生ぐらいからオーディションを受けていましたが、ほぼすべて書類審査で落選していて。歌を聴いてほしくてカセットテープを同封して送りましたが、結果は全然ダメでしたね」
『avex dream 2000』で掴み取ったチャンス
12万人のオーディションで準グランプリ
そんな倖田に転機が訪れたのは、高校2年生だった1999年。エイベックス主催のオーディション『avex dream 2000』で、初めて歌の審査を受けられることに。
倖田「12万人が集まった『avex dream 2000』では1次審査から歌を披露できる機会を与えられていたので、私としては『やっと自分の生歌を聴いてもらえる!』という気持ちでした。ようやく、最終審査まで残り、結果は準グランプリ。そのあとは候補生として毎週末、京都から東京に行き、ウォーキング、ダンス、ボイストレーニングなどのレッスンを受け、高校3年生のときにデビューしました」
倖田が述べたようにエイベックスでは、当時から積極的に次世代のアーティストやクリエイターを育成するためにさまざまなレッスンの機会を設けていた。
KOO「次世代のアーティストを育成するシステムが当時からエイベックスにあったのは知らなかった。デビューに向けたレッスンなどの英才教育は、今の『エイベックス・アーティストアカデミー(以下、アカデミー)』にも繋がっているだろうね」
倖田「私は当時、そもそもデビューできるかどうかも定かではなかったし、デビュー後も、『シングル3枚で結果を出さないといけない』というスタートだったので。今のアカデミーのシステムは、アーティストたちにとってすごく夢があるなと思うんです」
ほかの人と同じでは誰も振り向いてくれない
試行錯誤してオリジナルな存在に
ここで倖田來未の原体験を遡ると、音楽が好きだった母の影響で、幼少期に聴いていたのは“中森明菜”、“山口百恵”、“鈴木聖美”。その後、“DREAMS COME TRUE”の曲を聴いて「私も人を感動させるような曲が歌いたい」と思い、歌手を志したという。
倖田「rhythm zoneでデビューすることが決まってから、洋楽を聴くようになったんです。18歳の頃は“バックストリート・ボーイズ”、“イン・シンク”、“ブリトニー・スピアーズ”などを聴いていましたね。当時の日本のチャートやビルボードチャートの上位に名を連ねるアーティストたちは、エイベックスと関係があるアーティストばかりで。なので、所属したらすぐに活躍できると思っていたんですが、実際はもちろん全然売れない。それにデビューしたら、今まで憧れていた人たちが急にライバルに変化したんです」
KOO「もちろんアーティストとしてのリスペクトはあるけれど、自分が憧れているアーティストのように売れるためには、同じ土俵に立って戦っていかなければいけないしね」
倖田曰く、「テレビに出る前は、エイベックスの中で守られたブランディングをしてもらっていた」と語る。だからこそ、守られた期間で自分磨きにも取り組めたとも。さらにその期間で倖田は、さまざまなクラブにゲスト出演し、自分のことを誰も知らない環境の中で歌う“特訓”をしていた。そのステージは1年間で100を超える。
KOO「クラブのショータイムって、出演する側からしたら本当に根性がいる。お客さんは自分たちが盛り上がるために来ているのに対し、アーティストはアウェイの状態から入るのが当たり前なので。どのようにオーディエンスを盛り上げて、振り向かせて、巻き込めるかっていうところが常に勝負。そのときの経験が、今の倖田をつくっていると思う」
倖田「クラブで場数を踏んできた時代があったからこそ、今でも細やかなことに感謝の気持ちを持てる。実際に会場に行って経験を積んでみないとわからない。そう思うことができるようになったあの時代があって本当に良かった」
KOO「そう思えるということも含めて、ブレイクするに至るまでに大切なのは、『教えてくれることだけをやっていても上手くいかない』ってことなんだよね」
倖田「やはり、ほかのアーティストと同じことをやっていたら誰も振り向いてくれない。誰もやってないことを探していたら、当時、“ブリトニー・スピアーズ”、 “クリスティーナ・アギレラ”、 “デスティニーズ・チャイルド”など洋楽アーティストのようにセクシーでカッコ良く歌って踊るようなアーティストが国内にいなかったんです」
オリジナルのスタイルに活路を見出した倖田は、一躍、日本の音楽シーンの中心へ飛び立った。
自分が出る杭になれたと思って
叩かれてもいいという覚悟でいた
倖田「はじめに『ファイナルファンタジー(X-2)』の主題歌に『real Emotion』が起用されて、そのあとリリースした『Crazy 4 U』を聴いてくださった庵野秀明監督から声がかかり、実写映画『キューティーハニー』の主題歌のオファーを受けました。その過程で、倖田來未というアーティストが確立できたんです。あとは『Butterfly』もきっかけとなった一作です。あの楽曲で日本レコード大賞も受賞し、ファッション雑誌で“くぅちゃん”ファッションみたいな感じで取り上げられて、街にも真似してくれる子たちが増えましたね」
セクシーなファッションに身を包み、パワフルな歌声とダンスでパフォーマンスする。当時、倖田來未を表す代名詞として生まれたのが、“エロかっこいい”だった。
倖田「カッコいいセクシーさみたいなところを追求していた中で、その代名詞が世間に浸透していきました。日本に先駆け的な存在がいなかったから、当時は叩かれたりもしたし。でも自分が出る杭になれたと思って、そのときは言われるだけ言われ続けようという覚悟でいましたね」
知らないと言われるより嫌われていたい
新時代の代名詞となるアーティストへ
KOO「世間の人たちから見ると、“エロかっこいい”=倖田來未というイメージが確立している。イメージに乗っかるしかない部分もあるけど、きっとそこに葛藤はあったはずだよね」
倖田「でも私は、倖田來未の存在をどこか俯瞰で見ていて。倖田來未だったらこういう衣装を着る、こういう発言をする、こういう楽曲を歌うみたいな。当時はものすごいスピードで人気が広がっていったので、自分でも『倖田來未すごい!』なんて思っていましたが、 “地に足をつけて、現状に甘えず”という言葉を毎日のように自分に言い聞かせていましたね」
KOO「その頃には、ライヴをする場所がクラブからホールになって、アリーナになって、ドームになって、と瞬く間に拡大していった感じだよね。TRFもそうだったんだけど、ものすごいスピード感で物事が進んでいくじゃない。そのときはどんな心境だったのかなって」
倖田「ファンからの熱量をすごく感じた一方で、やはり批判も多かった。だけど、ファンが100人いれば、同時に自分のことをよく思っていない人も100人いるくらいの心構えでいましたね。20周年ツアーのタイトルにもなっていますけど、私は『知らない、と言われるより嫌われていたい』。自分の存在や自分の歌で救われる人がいるのであれば、私は傷ついてでもチャレンジしてジャンプをする。それは昔も今も変わらない姿勢かなと思います」
社内の繋がりが互いを高め合う
エイベックスの強みを生かした挑戦へ
さまざまなことを乗り越えてきたふたり。その距離感の近さと関係性の深さ、根底にあるのは「リスペクトし合っていること」だとDJ KOOは語る。
KOO「お互いに自信を持ってやっているし、その自信というのは、積み重ねてきたもの同士だからわかること。それほど頻繁に会っているわけではないけれど、SNSで倖田の写真を見るだけで、今の倖田がどんな状態か、いい調子そうだなとかもわかるんです」
倖田「エイベックスはアーティストも社員も縦社会ではない、というところが魅力だと思うし、昔から私もKOOちゃんに対して先輩と後輩のような固い関係ではなく、いい距離感で付き合わせてもらってきた。例えば『a-nation』のようなエイベックスのアーティストがたくさん集まるイベントがあるじゃないですか。そこで、もっといろいろ話し合える場があったり、ライヴでコラボできる環境があったりすれば、さまざまなアーティストがお互いに高め合うことができるんじゃないかなと思います」
KOO「エイベックスのいろんなイベントに参加していく中で感じるのは、どれも根本に『エイベックスでこんなことができるんだ!』という強みを、アーティスト全員が再認識できる場だということ。倖田が言うように、改めて今、社内の関係値をさらに生かした挑戦をするのはいいことだなと思いました」
アーティストは自分次第
ハードルを下げず、信じた道を歩き続ける
倖田「エイベックスには後輩でカッコいいアーティストがいっぱいいるけど、まだまだ世の中に知られていない人がたくさんいる。それをどう突破するのかが重要ですけど、結局アーティストは自分次第なところもあって。私はオリジナルな存在でいるために、流行っている曲をあえて聴かず、時代の流れとは異なる楽曲をアウトプットするような楽曲作りを心掛けてきました。自分のハードルを下げずに、信じた道を歩き続けることはすごく大事だなと思います」
KOO「それは、ここまで積み重ねてきたからこそ、見えてきたものがあるよね」
倖田「私からすると、KOOちゃんは芸能界でもう一度大きな波を起こしたから、さらにすごい存在だなと思うんです。私がもう一度何をするのか、となったときに、結局歌手以外の選択肢が浮かばないんですよ。やはり歌うことが好きなんです。今も毎年ツアーをやらせてもらえる環境にあって、シングルもアルバムも継続的にリリースさせてもらえて。昔から変わらず、倖田來未として楽しみながら活動ができていることが嬉しいですね」
ボーカリストであり、エンターテイナー
今でも倖田來未が一番好き
長きにわたって、エンタテインメントの世界を走り続けてきたふたり。この先の未来、どんなことを想像し、どんな姿の自分がそこにはいるのだろうか。
倖田「音楽を楽しむ選択肢はものすごく広がりましたよね。例えば、将来VRで座席指定ができて、そこからライヴを観られるようなシステムが当たり前になれば、いろんな状況下の人が気軽に音楽を楽しむことができる。これはコロナ禍のときにすごく思いました。どうしても参加できない場所やタイミングを含め、デジタルライヴがひとつの選択肢として存在すればいいし、それによって改めて生のライヴの重要性も出てくるのではないかなと思っています」
KOO「倖田のデジタルライヴのパフォーマンスは気になるね。ちなみに、倖田はずっと演者として第一線で活動しているけど、プロデューサーとしてグループやアーティストを育てていく姿も僕は見てみたいな」
倖田「40、50歳になったらプロデュース業にも挑戦してみようかなという、漠然としたイメージはありますけど…。例えば、倖田來未には表現できないパフォーマンスもあると思うので、そのアイデアを応用できたら面白いかもしれないですね。仮にアーティストを育成するとなれば、育てる子の人生を背負って本気で取り組みたいと思っています。ただ、現時点で、私はエイベックスのボーカリストであり、エンターテイナー。まだまだいろんな世代の方に倖田來未を観てもらいたいし、これからも世の中を楽しく騒がしていきたいと思っています」
倖田來未の登場はセンセーショナルだったゆえに、多くの人の目に映ったときには、その裏にある苦労や努力を一切感じさせないものだった。ただし、誰よりも自らの理想像と向き合い、厳しい声と視線に晒されながらも、確固たるブレないアーティスト像を作り上げたからこそ、今も倖田來未というオリジナルな存在が支持され続けるのだろう。これからも、アーティスト活動のみならず、時代を牽引するアイコンとして、唯一無二のエンタテインメントを届ける彼女から目が離せない。
(写真左)
DJ KOO
(写真右)
倖田來未