動画再生回数が1億3千万回超え、トランプ大統領と安部首相の晩餐会、NY国連本部でパフォーマンス、ウガンダ観光大使に就任……2016年8月、YouTubeに投稿されたPPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen)という動画に登場したピコ太郎と呼ばれる男は、あっという間に日本を飛び越えて、世界中で一大ブームを巻き起こした。あれから2年、立役者となったプロデューサーの古坂大魔王、エイベックス・マネジメントのゼネラルマネージャーの白取輝知、チーフマネージャーの新井正則の3人に話を伺い、ピコ太郎の誕生秘話と、そこに隠されたヒットの核心に迫った。
異端トリオの出会いと
当時最先端のNO BOTTOM!
「エイベックス13年目なんですよ」――古坂は開口一番そう言いながら、幼馴染みである白取のことを、昔を振り返りながら紹介してくれた。
古坂「僕はずっとテルって呼んでるんですけど、もう幼稚園からいっしょですね。小中学校もいっしょで、高校は別だったんですが、18歳でふたりとも東京に出てきました。僕は芸人、テルはサラリーマン。テルは金融機関に設置されてる機械、両替機とかを直す仕事をしていたんですが、これ以上両替できないってとこまで登り詰めて(笑)。それで26歳の時に、この業界に興味があって転職を考えてたんですよ」
白取「その時にちょうど古坂のマネージャーがいなくなって。古坂から『一度、事務所の社長に会ってみないか?』って言われて、新宿アルタ裏にあったイタリアン・トマトで面接を受けたんです(笑)。『すぐ入ってほしい』と言われたんですけど、転職に3ヵ月はかかりそうだったので悩んでいたら、『3ヵ月待つ』って言ってくれて。それならと思って決断しました」
幼少期からずっと同じ時間を過ごしたふたり。「古坂は絶対に芸人になれるだろうけど、いっしょにやったら確実に足を引っ張る」――地元にいた時から白取はそう思っていたそうだ。ただし当時は、“青森から芸人になる”なんてことはあり得ない時代だったという。
古坂「あの頃は、青森から東京に行ってお笑いをやるって、ハリウッドに行って俳優やるのと変わらなかったんです。僕が東京に来た時に、ようやくJCA(人力舎が設立した関東初のお笑い養成学校)ができたけど、それまでは大阪に行ってNSCに入るぐらいしか選択肢が無かった。それに近いところだと日芸(日本大学芸術学部)とか、アナ学(東京アナウンス学院)とかがあったけど、ウッチャンナンチャンさんが日本映画学校卒だったので、そこへ行くっていう体で東京に行ってみようと。そうしないと親が許してくれなかったんです」
相方がいなかった古坂は、クラスで席が後ろの小島と並びにいた村島とともに、1991年に“底ぬけAIR-LINE”を結成。最初に所属したのは、M2カンパニー(ホリプロコムの前身にあたるお笑いプロダクション)。そこで出会ったのが、“くつした一足二足”というコンビで芸人をしていた新井だ。
新井「ホリプロに入る前は大学生でした。でもお笑いを本気でやりたいから大学を辞めて、小学校の同級生とコンビを組んだんです。それで数々のオーディションを受けては落ち、結果ホリプロを受けて預かりみたいな形に。白取は僕らの担当ではなく、別の担当マネージャーさんって感じでした。その後お笑い芸人は丸5年やったんですが、限界を感じて辞めて、その後にボディビルダーになろうと思ってジムで働きました。僕、筋肉の付きが良かったんですよ(笑)。ただ半年後ぐらいに、(エイベックスに転職していた)白取から突然『マネージャー興味ある?』って電話があって。芸人だった僕からすれば、エイベックスっていう大企業はもう未知過ぎて……」
白取「その時、私はAAAの現場を担当している頃でした。当時から本当に毎日忙しくて、僕としてはとにかく礼儀がちゃんとしてる元気と根性のある人を探してた。そこで新井を思い出したんです。当時のホリプロコムは稽古場が一つしか無かったので、まずは先輩芸人が優先的に使って、それ以降に若手が稽古するんですけど、終電が無くなったら大体空くわけですよ。みんな帰れなくなるから。なのに新井たちは終電ぐらいから稽古場に来て稽古をやってた。そういう根性や、めんどくさがらない性格を見込んで声をかけたんです」
古坂「その頃に僕はNO BOTTOM!というテクノユニットを始めて。そもそも僕はお笑い芸人としてエイベックスに入ってないんですよ。例えばバブルガム・ブラザーズって漫才師だったのに、『WON’T BE LONG』一発で他のお笑いを横から抜いていったじゃないですか。ああいうのいいなと。元々はドリフターズさんやとんねるずさんも好きだったし、お笑いと音楽の両方をする人が好きだった。ちゃんと音楽をやろうと思って始めたのがNO BOTTOM!なんです」
2002、3年頃に古坂は、当時の人気リアリティ番組『マネーの虎』に出演。NO BOTTOM!でロンドン・デビューを狙ったが不合格。その後、日本全国の祭り囃子をダンスミュージックにして盛り上げるという番組の中でメジャーデビューのチャンスがあり、そのレーベルがエイベックスだった。
古坂「NO BOTTOM!は2004年にエイベックスからメジャーデビューして、ワンマンライヴはヴェルファーレでした。東京音頭とジュリアナを組み合わせた『ジュリアナ東京音頭』とか、阿波踊りとアンダーワールドを交ぜて『アンダーワールド踊り』とか、ルパン三世と盛岡さんさを合わせて『ルパンさんさ』とか。当時では最先端のことをやってたとは思います(笑)」
白取「アイデアは良かったと思うんですが、広がらなかった。インターネットも普及してなかったし、あの当時にSNSがあったら、また違ったんじゃないかなとは思いますね」
ピコ太郎の大ヒットに隠された
“売れるための準備”
SNS。それは後に世界中で一大ムーブメントを巻き起こす「ピコ太郎」と『PPAP』にとって欠かすことのできなかったものだ。その意味でも、古坂、白取、新井のトリオによる“実験”は、ピコ太郎以前にも行われていたと言えるだろう。さらに3人のバランスもいい方向に向いた。
古坂「たぶん僕ら3人は、ものすごく似ている部分と全く違う部分があるんですね。白取とはマネージャーとタレントなんだけど、基本は幼馴染み。新井は芸人の後輩。その良し悪しはあると思いますけど、その良い部分がすべて発揮されたのがピコ太郎だと思うんですよね」
ただし、ピコ太郎誕生に至るまでには、古坂自身の葛藤もあった。「お笑いも音楽も中途半端にやったら誰も認めてくれない。やっぱり僕はお笑いがしたくて東京に出て来た」と古坂は、2010年に単独ライヴの開催を決意。当時は『エンタの神様』や『レッドカーペット』時代であり、“コントを短く、キャラクターで”というのが主流だった。しかし古坂の一本目のコントはなんと40分。「テレビを無視しよう」「裏を行こう」と思ってやっていくうちに――ピコ太郎に出会った。
古坂「ずっと音楽を作って来て、NO BOTTOM!で音楽コントもやってたんですね。もっと言えば底ぬけAIR-LINEでもやってた。ただし今回は、僕ではなく違う誰かにやってほしかったんです。その時に第2回の単独ライヴがあったんで、特別ゲストでピコ太郎を登場させた。それが全ての始まりで、その後に昔から使いたいと思っていたテクノ体操っていうコントの曲を使って、ピコ太郎のための曲として作ったのが『PPAP』。お笑いだったらオチをつけなきゃいけないけど、あの人は歌手なので、ウケなくていいんですよ」
白取と新井は、ピコ太郎の誕生を間近で見ていたわけだが、そこに至るまでに、特に口を出さなかったという。
新井「ただ実は最初、僕と白取的にはピコ太郎のPPAPではないネタの方がいいんじゃないかって言ってたんですよ。他にも面白い曲はあったので」
白取「え? そうだっけ?」
新井「ずるい!(笑)」
古坂「まあそれも含めて、運ですよ。ピコ太郎はほんと運だと思います。僕はよく『宝くじが2万回当たったような感じ』って言うんです。言ってみれば一発屋的な感じじゃないですか? でもいまだに海外に呼んでいただいたりしてる。ただ運を掴むためには、手数を打たないといけない。思い返すと、これまでも手数は打ってたなと。手数を打ちながら、ちゃんと身内の人間を固めて、同業者の信頼を得ておく。これは“売れる準備”だと思ってます」
また、ピコ太郎の『PPAP』の大ヒットの裏でたびたび証言されるのは、音楽的なクオリティの高さ。そこは古坂がピコ太郎というアイコンのポップさの裏に、巧妙に忍ばせていた部分だ。
古坂「お笑い的には、実はピコ太郎って薄いんですよ。ですが音楽をやってる人はまず、音源に食いついてくれる。DJ KOOさんは、スネアの部分の『808のカウベルはズルいよ』って言ってくれたり、tofubeatsくんは同じことを『関ジャム』で言ってくれました。ある意味でそれがあったからこそ、海外で受け入れられたんだと思います。ジャスティン・ビーバーのツイートで知った人が多いと思いますが、彼がいいって言うためには、きっと音楽的な要素が不可欠だった。ピコ太郎が日本的なお笑いの要素だけだったら、海外でのヒットは無かったと思います」
エイベックスという常勝軍団と
3人のトップダウン
『PPAP』の動画再生回数は1億3千万回。別のバージョンを含めると、『PPAP』自体でトータル4億回再生以上という驚異的な記録を叩き出している。
新井「あの時は1時間ごとに100万回ぐらいずつ再生回数が上がっていたので、『これ何かに乗っ取られてるのか?』と思いました」
古坂「『実感は?』とよく聞かれますが、なかなか難しい。だって普段は一生懸命作ったMVが10万再生いったらいい方ですよ。ただ、世界を回るとやっぱり実感しますね。あとピコ太郎に関しては、エイベックスでしかできないことがたくさんあった。ものすごく簡単な例だと海外で問題が起きた場合とか。それに『PPAP』は2016年8月に動画が公開されて、10月に全世界配信、12月にアルバムを出しました。そのスピード感はエイベックスだからこそできたことだったと思います」
白取「今までマネージャーをやっていて初めてだったんですけど、ピコ太郎がいきなりグンと来た時に、自分の中で『これをやろう』っていうのが全部ひらめいたんです。テーマは世界を巻き込む大コント(笑)。だからこれはやってこれはやらない、最初にこれをやろうとか。それを古坂にも話しながら、二人で『今までお世話になった方々にお恩返しできるタイミングかもしれないから、そこも大事にやろう。』そして私から『絶対に忙しくなるから、スケジュールで文句は言わないで』と伝えました。古坂からは最後に『俺はおもしろかったらいいよ!だから悩んだら全部【おもしろいか、おもしろくないか】で判断して!』と言われたのもよく覚えてます。そこからは予想を絶する忙しさでした。社内でワガママも言ったと思いますが、チーム一丸となって突き進んだらとにかくやりたいことがほぼ叶ったんですよ」
新井「本当はマネージャーって、タレントが身体を壊さないようにスケジュール管理をしなきゃいけないって教わったんですけど、『今回だけは関係ねえ!』と思って。なんなら僕も初めての経験だったんですけど、2時間睡眠や1時間睡眠でもすごい現場が楽しいので走れたんですよ。ジャスティン・ビーバーがツイートするようなことが起きたので、また何か起きるんじゃないかと思って目が覚めちゃう。あと深夜や朝に海外の人と連絡も取ってたので」
ピコ太郎の世界的な大ヒットを経て、白取と新井は名誉ある賞を受賞することに。それは昨年のエイベックス社内表彰制度「Mad+Pure Award」の受賞だ。
古坂「まさか幼馴染みと後輩が受賞するなんて。いつも言ってるんですけど、ほんとラッキーなんですよ。もちろん積み重ねはあったけど、ブームが始まってからはいつ終わるんだろうねって言ってましたし、作るだけ作るけど、これはマリオで言うとボーナスステージだからと。ただそれを何とかしてブランディングしたのはこのふたりなので。最初の頃に言ってたのは、『トップダウンで決めるみたいなのがあるけど、この3人で決めたことがトップダウンだ』と」
白取「エイベックスの皆さんが尊重してくれたんですよ。『お前らでやれ』とサポートしてくれた」
新井「楽しかったですね」
古坂「ほぼ100点の動きでみんなが走ったんだと思います」
今年に入って新曲「Can you see? I’m SUSHI」がみんなのうたに選ばれ、初のデジタルアルバム『I have a PPAP』が7月に全世界150ヵ国に配信。ピコ太郎はまだまだ打つ手を隠し持っているはずだ。
古坂「予定としてはまだまだ打つ手はありますし、ただそれが当たるかはわからない。とりあえず打っておこう、動いとこうという感じ。先に言っておきますけど、『PPAP』現象を超えることはもう無い(笑)。変にあれを超えるとか意識せず、ただただ面白いことをしていきます」
最後に古坂に「仕事をしていて感じるエイベックスらしさとは?」と質問をすると、「このふたりがエイベックスらしくないからな〜」と笑った。ただ同時に、「やっぱりエイベックスは常勝軍団なので、勝ち方を知ってるんですよ。勝ち方を知ってるところに何かを投げたら、核融合する。さらにしっかりと構築されたシステムもある。ピコ太郎はエイベックスじゃなければ確実に売れなかった」とも。果たしてピコ太郎の今後の展開は? そして忘れてはいけないのは、ピコ太郎はあくまで古坂大魔王による“第1弾プロデュースアーティスト”ということだ。
(写真左)
エイベックス・マネジメント株式会社
芸能マネジメントグループ
チーフプロデューサー 新井 正則
(写真中)
古坂大魔王(ピコ太郎プロデューサー)
(写真右)
エイベックス・マネジメント株式会社
芸能マネジメントグループ
ゼネラルマネージャー 白取 輝知